風が往き交う場所

カトリックなおばはんの日々の戯書きです。                                   




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「神に愛された罪びと」 :: 2016/01/25(Mon)


 

 「イエスに出会ったことは、ザアカイの
  人生を根本から変えてしまいました。
  もちろん、彼はこれからも罪びとの
  レッテルを貼られたまま生きて
  いかなくてはならないでしょう。
  でも彼はもはや
  『神に見捨てられた罪びと』
  ではなく、
  『神に愛された罪びと』
  なのです。」
 幸田和生司教「福音のヒント」/
  年間第31主日  ルカ19章1-10節/
          2013年10月25日 (金
))


神に憧れつつも、神ではない私たちは誰もが罪びとである。
私という人間の中にも天使のような部分と悪魔のような部分、強さと弱さとが同居している。
私の内面にシモン・ペトロとイスカリオテのユダとが同居している。

ある人とイスカリオテのユダの話になった。
イスカリオテのユダが、なぜイエスを裏切ることになったのかを思い見ることなく、
ただ一方的に断罪されることを、どうにも承服できないと、その人は言った。

「イスカリオテのユダは、ただただ真面目な、
あまりにも真面目な普通の人だったのだと思う。」
と、私は応えた。

わが目に正しくないと映ることを、自分の価値観でついつい責め、裁くことを人間はしてしまう。
私自身にも覚えがある。そういう自分の傾向に、たびたび気づいて反省する。

イスカリオテのユダはきっと、あまりにも真面目な人だった。
そして、ローマ帝国の支配下にあるユダヤ人の立場を心から案じていた。
「先生の仰ることは確かに正しいけれど、しかし、先生は危険人物かもしれない…。」と、
イエス様の弟子でもあるユダは、他の弟子たちよりはるかに苦悩したのではないだろうか。

「イエス様ご自身も、ユダを救いたくて、救いたくて、たまらなかったのだと思うよ。」
理屈っぽい話し相手に、ありきたりの応えしか私には浮かばない。

イエス様を、どんなにひどいやり方で裏切っても、
もしも、イエス様の十字架の足元ででも、自分の行いを悔いるユダが居たなら、
イエス様は、これ以上ないほどに赦し抜かれたはずだと、私は思っている。
自ら命を絶ったユダを、イエス様は、これ以上ないほどに悲しまれたことだろう。

ユダの死後の運命は私たちには分からないけれど、
ユダがたとえ地獄に堕ちていても、
イエス様が手を差し伸べて、ユダがその御手をつかんでくれるのを
今でも待ち続けていらっしゃる光景を、私は思い浮かべてしまう。

「でもね、人間関係でも同じようなことが起こるけれど、
 『あなたが大事なんだ』という心からの思いに、相手が心を開いてくれなくては、
 イエス様にもどうにもならないのだと思う。
 幸田神父様が『神に愛された罪びと』という言葉を使われたけれど、そうなれたらいいよね。」
と、私は話を結んだ。

こんなで良かったのかな。


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  1. 祈り
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