風が往き交う場所

カトリックなおばはんの日々の戯書きです。                                   




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聖母に倣う :: 2013/04/14(Sun)

              聖母と薔薇


聖母マリアについて分かち合う場があった。

今生の別れの時まで、互いの確執に悩んだ母娘関係にあった私だったためか、
カトリックでありながら私が聖母を受け入れるまでには、かなりの時間がかかった。
もしかしたら、今も、「母なるもの」としての聖母を受け入れていないのかもしれない。

正直のところ、あまりにも慈愛に満ちた両親に恵まれたイエスに、私は嫉妬さえ感じていた。
このように聖母を受けとめられない私について、ある司祭に訴えてみたことがある。
15年ほど前のことだろうか。

その司祭は、私の感情には触れることなく、その代わりに、聖母がどんなことであろうと、
「母はこれらのことをすべて心に納めていた。」と、すべてを胸に納め、
思いを巡らした姿勢について語って下さった。
大天使ガブリエルによる受胎告知はもとより、生まれたばかりのわが子を訪れた
羊飼いたちの賛美の言葉も、「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の
父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」
「婦人よ、あなたは、わたしと、なんの係わりがありますか。」という
思いがけない息子の言葉さえ。
聖母マリアの姿勢は一貫していた。
そして、「お言葉どおり、この身に成りますように。」という神への従順に生きていた。

私がつまずいていた「母なるもの」について、
「どうでもよい」とまでは仰らなかったけれど、
その司祭は聖母に倣うのは、この「胸に納め、思い巡らす」在り方だと仰った。
このことがあってから、少しずつ聖母に親しみを持てるようになった。

「胸に納め、思いを巡らす」ことは静かな姿に見える。
しかし、その内面には荒れ狂う海のような激しい怒りや悲しみが
渦巻いているのかもしれない。
じっとしてはいられないような焦燥感に襲われているのかもしれない。

しかし、じたばたしてはいけない。
神は出来事を通して語られると学んだことがある。
自分に起こっている出来事をじっと受け留め、しっかりと思いを巡らし、
語られていることに「耳をすます」。
信仰者と呼ばれる者の道は「聖母マリアの道」なのだとつくづく思った。

更に自分を省みるなら、15年前、私は高校生と中学生の母親だった。
私の母親が自分にとってどんな母であって欲しかったかを問うよりも、
私がわが子に対してどんな母親であるかを問わなくてはいけない年齢であった。
必要な回り道であったのかもしれないが、今になって恥ずかしい。

 カリタスジャパン

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テーマ:宗教・信仰 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 祈り
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