風が往き交う場所

カトリックなおばはんの日々の戯書きです。                                   




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人の知恵、人の言葉によらず…~コリントⅠ 2:3、4 :: 2011/10/14(Fri)

           アンデスの十字架

闘いに臨むつもりで人に会わなくてはならないことがありました。
待ち合わせの町に到着して、真っ先にその地方のカテドラルを訪れました。
そこで心を整えるつもりでしたが、聖堂は何かの集会に使われていて叶いませんでした。
ならば、せめてカテドラルの庭の片隅で静かに時を過ごしたいと思いましたが、
教会を訪れる人をもてなすことを自分の大事な仕事と心得ている様子の方が
着いてきて離れない様子なので、仕方なく一礼をして目的地に向かいました。

驚きました。通されたレストランの個室には、
偶然にも先ほど訪れたカテドラルの古い時代の聖堂の絵が飾られていて、
そのことを知らない相手がその絵の前に席を取りました。

席に着いたとき、双方が相手を説得しようという意気込みであることは明らかでした。
まさに人間の浅はかな知恵と言葉で闘おうとしていました。

ところが、相手の言い分に耳を傾けているうちに、
「こちらが何も言わないのに相手が勝手に」という感じで、
相手がこちらの希望にどんどん妥協してきたのです。
私は相手が背にしているカテドラルの絵をただただ眺めていました。
何が起こったのか分からない、という出来事で、気がつけば和やかな雰囲気のうちに、
こちらの願いが聞き入れられていました。

私は話すことが大変苦手です。
今回の不思議な体験を経て、今、開いた聖書の箇所を読んでハッとしたのは、
何かを訴えようとするとき、これまでの私が限りなく愚かな自分の知恵と言葉で
相手を説得しようとしてきたのではないか、ということでした。

聖パウロは「コリントの信徒への手紙 Ⅰ」の2章3節、4節で、

「そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。
わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、
“霊”と力の証明によるものでした。」

と述べています。

聖パウロが「衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安」であったということに、
何かを人前で述べなくてはいけないとき、いつも憶病になる私は慰められました。

続く第5節に
「それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、
神の力によって信じるようになるためでした」
とありました。
この無力な私のコンプレックスを神さまが使って下さることに希望を持ちたいと思いました。  


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