風が往き交う場所

カトリックなおばはんの日々の戯書きです。                                   




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「ともし火のための油」 :: 2011/09/02(Fri)

天の国は次のようにたとえられる。
10人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出ていく。
そのうちの5人は愚かで、5人は賢かった。
愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。
賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。
ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。
真夜中に「花婿だ。迎えに出なさい」と叫ぶ声がした。そこで、おとめたちは皆起きて、
それぞれのともし火を整えた。愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。
「油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。」
賢いおとめたちは答えた。
「分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。」
愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている5人は、
花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。その後で、他のおとめたちも来て、
「ご主人様、ご主人様、開けてください」と言った。
しかし主人は、「はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない」と答えた。
だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。
                           ~マタイ25:1-13~


聖書のたとえ話は難解だ。
良い導き手がいなくては、私にはとても読み解くことができない。
上に記したマタイ25章もそんな箇所だ。
「相手が困っているのに、『あらあ。困っちゃったわねえ。買っていらっしゃいよ。』とは、
何と冷淡な。そんな人を受け入れるのが本当に天の国なのだろうか?」
と、感じたものだ。

幸田司教様が、この箇所について分かりやすく解説していらっしゃるページがある。

「気の毒なおとめたちに意地悪おとめが分けてあげなかった油」とは、
幸田司教様の解説によれば「生き方」など「人に分けてあげることのできないもの」を
意味しているのではないか、とのこと。

納得しつつ、私なりに「人に分けてあげられないもの」について思いをめぐらすうちに、
「分けてあげたいのはやまやまだが、
 いや、分けてあげたくて仕方がないのだが、どうしても分けられないもの、
 さらに言えば、分けても受け取ってもらえないもの」に思いが至った。

ホルマン・ハントの「世の光」という絵が好きだ。

ホルマン・ハントがヨハネの黙示録の
「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。
だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、
わたしは中に入ってその者と共に食事をし、
彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」(3:20)
を黙想して描いたという。

この絵のように、イエスは扉をこじ開けて、ずかずかとやってきたりはしない。
辛抱強く、遠慮がちに扉をたたき続ける。
「あなたのことが大事なのだよ。どうしているか、気がかりなのだよ。」と。
こちら側が自分の意志で扉を開いて、イエスに心を開くまで。

そして、神の慈しみを確信したなら、
「ともし火の油」は人に分けてあげられるほどに
その人の壺を満たすのかもしれない。


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テーマ:宗教・信仰 - ジャンル:学問・文化・芸術

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