風が往き交う場所

カトリックなおばはんの日々の戯書きです。                                   




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「世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」 :: 2010/04/01(Thu)

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2010年4月1日「聖木曜日」の
福音書(ヨハネ13:1-15)


イエスは、この世から父の
もとへ移る御自分の時が
来たことを悟り、世にいる
弟子たちを愛して、
この上なく愛し抜かれた。

ペトロが、
「わたしの足など、決して
 洗わないでください」
と言うと、
イエスは、
「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと
 何のかかわりもないことになる」
と答えられた。

主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、
あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。



イエスの時代には、足を洗うことは召使いの仕事だったそうです。
3月23日の記事で、私は今日の聖木曜日のミサの「洗足式」の
「足の要員」に駆り出されそうになり、困り果てたことを書きました。
このときの弟子たちも、常日頃「主である方」と心から敬っていた
イエスが、自分たちに仕える者のように足を洗うということを、
どう受けとめてよいのか分からないほどに、恐縮したことでしょう。

つい遠慮したペトロは、イエスから突き放されたような言い方で
たしなめられました。

「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと
 何のかかわりもないことになる」
と。

…そ、そんなぁ…。

弟子たちは、師イエスに仕えられることで、自分たちが大切にされることを
心の芯まで、骨の髄まで感じ取ったことでしょう。理屈抜きにそれを
実感するため、「知る」ために、イエスに洗っていただくことは
必要なことだったのでしょう。
たまたま3月23日の記事を読んで下さった、洗足式で足を洗っていただいた
ご経験のある信徒の方が、その圧倒的なご体験を話してくださいましたが、
これは本当に「体験」なのだと思います。

私はただただ、臆病で気弱なだけのオバチャンにすぎませんが、
こんな私を仮にも「優しい」だの「親切」だのと誉めてくださる方が
いらっしゃるとすれば(ほとんどは勘違いですが)、それは、
辛いことが瓦礫のように積み重なった記憶の隙間に、親から、家族から
自分が大事にされた確かな体験が埋もれているからなのかもしれません。

そして、
「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、
 あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。」と、
イエスが仰ったように、母親の愛に圧倒されつつも教えられた記憶が
「瓦礫の隙間」で生きているのかも知れません。

「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」

ああ、きっとそうでしょう。


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