風が往き交う場所

カトリックなおばはんの日々の戯書きです。                                   




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自分を赦すということ。  その2 :: 2010/03/29(Mon)

枝の主日 「枝の主日」だった昨日は、
 母の祥月命日でもあった。
 実家には先週、彼岸で
 墓参に行ったばかり
 だったし、もともと教会に
 用事があった。
 その上、夫が急に出張する
 ことになって、
 飛行機嫌いの私は、
 これから飛行機に乗る人を
 きちんと送り出さなくては
 気が済まず、何となく
 里帰りしての墓参を
 あきらめた。

↑マリア像も棕櫚で飾られて

実家が近くにあったら、無理をしてでも、帰省したのかもしれない。

夫を送り出し、子どもたちとの夕食も済ませて、独りになって、
娘である私にこんな記事を書かれている
可哀想な母を思いながらロザリオ1環を祈った。

どう思い起こしても、
私の両親は「アダルトチャイルド製造機」のような夫婦だったかな、
と悲しい気持ちで、もう1度事実を認めてみる。
そして、「赦す」「自分を赦す」ということを今1度考えた。

相手を赦すということは、
相手が神ならぬ不完全な存在であることを認めることなのかも知れない。

母があまりにも出来た人で、周囲の尊敬を集めたので、
私は長いこと、母を神のように敬っていた。
母の目に適うこと、母にほめられることが
私の誇りだった。ずい分長いこと。
母の理想通りに出来ず、ずい分と心ない言葉をぶつけられながら、
出来ない自分を責めていたように思う。

母もまた、自分の両親を神のように敬愛していた。
そういえば、父もそうだった。

私は子育ての最中に心のバランスを崩して、
自分の心の傷に気づくことができたけれど、
両親は死ぬまで、自分の内面に隠れた傷について
考えたことがなかったらしい。
                            ↓我が家にも。
2010 枝完全な人間はいない。
自分の不完全さを認めることは、
私のような心の傾向がある者には
容易だが、これまでを振り返ると、
私は自分の周囲の人々を理想化し、
その1人1人が完全であることを
期待しすぎて成長したように思う。
自分以外は、「聖人」か悪者かの
どちらかに色分けする傾向が
あったかもしれない。

兄はとても虚弱に生まれた。
「大人になるまで生きて
いてくれたら、それでいい。」と、
兄と母の関係は、私よりは楽だった。
父とのそれは、兄も大変だったけれど。

たまたま健康に生まれ、
こまっしゃくれた女の子なので兄よりはしっかりしていた私に、
多分、母は「完全な人間」であることを期待し、そうでないので落胆したのだと思う。

そして、私も自分が実は「神のような母」によって、
傷ついてきたことを認めたときから今まで、
自分の弱さを、ためらうことなく私にぶつける母の不完全さを
認めていなかったのだと思い当たった。

重ねて書きたい。
相手を赦すということは、
相手が神ならぬ不完全な存在であることを認めることなのかも知れない。
赦し合うということは、
お互いが不完全な存在であることを認め合うことなのかも知れない。

                   
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