風が往き交う場所

カトリックなおばはんの日々の戯書きです。                                   




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子どもたちから贈られたもの その5 :: 2009/12/23(Wed)

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 天使たちよ 戸口で歌え
 神が生まれた きょうはクリスマス

 これこそは約束された夜
 人びとに 今 神が訪れた
 クリスマスの晩だ 眠ってはいけない
                   神が生まれて ここにおれらる

     ~(歌:メルセデス・ソーサ/「誕生」/
         「ミサ・クリオージャ『アルゼンチンのクリスマス』」/DECCA/解説より)
                詞:Felix Luna 作曲:Ariel Ramirez 訳:濱田滋郎~


                 ダウン「誕生(El Nacimiento)」/AYGUALICHO & Javier Rodriguez     
                

最近、ある黙想会で、指導司祭が「神さまと喧嘩している人」について話して下さった。
自分が置かれた、どうにもならない状況を、自分の都合の良いように変えて欲しいと、何年間も祈り続ける人。
一見、敬虔な祈りの人のようだけれど、それは神さまと喧嘩していることなのだと、神父様は仰った。

ならば、かつての私は、自ら承知の上で、神さまに喧嘩を売っていたことになる。

そう、毎年この季節、私はイエスを妬んで、心の中で呟いていた。
「非の打ち所のない愛の持ち主を両親に持って、あなたには私の気持ちが分かるまい。」と。

真面目な両親だった。周囲のどの子どもよりも良い服を着せてくれた。食卓にはいつも、
母の手の込んだ料理が並び、私が所属するあらゆる集団において、私が良い「待遇」で
迎えられるように、母は配慮してくれた。
そして、それほど「理想的な親子関係」のもとで成長した私は、それにふさわしく、優秀で、
快活で誰からも一目おかれ、かつ、誰からも愛される子どもでいなくてはならなかった。
そして、当時の私は、それがまったく苦にならなかった。

高校時代に前兆はあったものの、それが「たとえ話」ではなく、
「私が背負っている、あまりに重く、巨大な荷物」として、
私が実感したのは、私が母親になってからだった。

あんなに重かったものが雲散霧消するためには、私が「傷ついた子どもである」ということを
認めることが、どうしても必要だったように思う。それは、私の子どもたちのためにも。

もはや、私は、神に喧嘩を売ったりはしない。
イエスは、思いもかけずに与えられた、私の生涯の課題と取り組む旅における同行である。
いつか、私の幼稚な分析を超えて、この友が、悟らせてくれるだろう。
私がどうして傷つかなくてはならなかったかを。
そして、両親それぞれを、私が深く理解し、心を痛めずに受け入れられるときが来るのだろう。
                               (まだ続きそうです。)


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