風が往き交う場所

カトリックなおばはんの日々の戯書きです。                                   




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子どもたちから贈られたもの その4 :: 2009/12/18(Fri)

アドベント

「アッバ」は「お父ちゃん」という
幼児語だそうです
神は 伝えたいのでしょう

お父ちゃんに 安心して甘えて欲しい
良い子でなくていい
ありのままの あなたでいい

どんな あなたであろうと
天のお父ちゃんの愛は 変わらない

~井澤雅子/「心にしみる聖書の言葉」/教友社~

            
              

昨日、私は、子どもたちは「私のような愚かな親のもとに『派遣』された」と書きました。
しかし、それではまるで、子どもたちが私の心の傷の治療の手段として、
この世に送られてきたかのよう・・・。
いえいえ、子どもたちは、まったくの恵みとして
私たちに与えられたのでした。これは確かなことです。

しかし、35歳を過ぎた私が「傷ついた子ども」としての自分に囚われているとき、
子どもたちのいたいけなさが、私に「母親である今」を思い起こさせ、我に返らせてくれました。

それでも敢えて、子どもたちが私のところに派遣されてきたと言うとしたら、
それは、子どもの存在と権利があまりに小さかった時代と思想と制度のもとで、
父母の実家で何世代にも渡って、気づかれずに傷ついてきた「子ども」の存在が、
私で断たれるためだったのだと思っています。

生まれたばかりの赤ん坊は本当に無力で、いやになるほど泣いてくれます。
私は里帰り出産をしましたから、病院から帰って、赤ん坊が初めて過ごす実家には
たちまち赤ん坊の泣き声が響き渡りました。
「おばあちゃん本能」を隠さない母はともかくとして、驚いたのは、
子ども好きではなかったはずの父が、まったく文句を言わずに、睡眠不足に耐えてくれたことでした。

頼りなげな母親を思ってか、わが家の子どもたちは、どちらもよく飲み、よく寝る赤ん坊でしたから、
さほど手がかかったわけではありません。
とはいえ、赤ん坊は泣かなくてはなりませんから、私はそのたびに抱き上げました。
どうして、あれほど赤ん坊を抱いていたのだろうと、大分あとになって思ったのですが、
一つのことに気づきました。

赤ん坊、あるいは子どもは、親に抱かれることで、慰められ、安心しますが、
わが子を抱く親もまた、同じように同じときを味わったような気がするのです。

それは、母親である私から与えていたばかりではなく、私もまた、子どもから与えられていたことの
証明であったように思います。



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