風が往き交う場所

カトリックなおばはんの日々の戯書きです。                                   




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「理不尽さ」を生きる :: 2009/12/04(Fri)

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 「どうか、ナオミ(快い)などと呼ばないで、
  マラ(苦い)と呼んでください。
  全能者がわたしを
  ひどい目に遭わせたのです。
    ・・・・・・・・・・・・・
  なぜ、快い(ナオミ)などと呼ぶのですか。
  主がわたしを悩ませ
  全能者がわたしを不幸に落とされたのに。」
        ~ルツ記 1章20節、21節~




大昔、他の教会にいたとき、「神さまに理不尽さを感じることがある」という分かち合いをしたら、
その場にいらっしゃった主任の神父様に、「神さまのどこが理不尽なのか」と、
たしなめられたことがありました。

その神父様は、深刻なお苦しみを持っていらっしゃったそうですので、
目の前に起きている現象を感じた通りに口にした私の言い分が
分からなかった訳ではいらっしゃいません。
それでも、その神父様は頑固に私の言い分をたしなめました。
今になって、その神父様は、神さまの側に立ってそう仰ったのだなあ、と思うのです。

また、同じ頃ですが、個人黙想に与ったとき、
指導して下さった神父様から、人間には受け入れなくてはならないものがある、と
教えられたことがありました。

そして数日前、ある黙想会で、理不尽さを受け入れることは、神を受け入れることだと、
指導司祭が仰いました。

「人間は、不平等に生まれ、不平等に生きて、不平等に死んでゆきます。
 これを受け入れることは、神を受け入れることなのです。」


確かな事実でした。
私にとっては、有無を言わせない言葉でした。
諦めることとは違って、何か、新しい力が与えられた感じがしました。

大変忘れっぽい私のこと、この世に生きていて感じる理不尽さに、
ふたたび不満をもらすことがないように、いくつかの場で
戴いた教えを、日々振り返って、生活してゆきたいと思いました。

✝「そのころ、イスラエルには王がなく、
      それぞれ自分の目に正しいとすることを行っていた。」(士師記)
 私たちの善き指導者、主・イエスに従い、身の回りに起きる理不尽な出来事に思いをめぐらし、
 目先のものごとに惑わされることなく生きてゆくことができますように。


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