風が往き交う場所

カトリックなおばはんの日々の戯書きです。                                   




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「傷が癒す」 :: 2009/11/10(Tue)

一昨日の記事を投稿するときに見つけた、
カラヴァッジョの「聖トマスの懐疑」。(参考:サルヴァスタイル美術館)
映像に使われていた、この絵を見たときには強い衝撃を受けました。
初めて目にしたのか、いや、何かで見たことがあるのか、その辺りは曖昧です。

この場面は、新約聖書のヨハネ福音書20章に記されています。
聖書での記され方はいつもそうですが、この箇所も、
さりげなく、短くまとめられています。

イエスの十字架刑の後、ユダヤ人を恐れて、身を潜めていた弟子たちの前に
イエスが復活して現れます。が、その場に居合わせなかったトマスは、
その話を信じません。トマスは言います。
「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、
また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」

その8日後、今度はトマスも居たときに、イエスが再び現れます。
「わたしの主、わたしの神よ。」と言うトマスに、イエスは言います。
「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

何事にも、人様の思いやりさえも、疑ってかかる私には大事な場面なのですが、
カラヴァッジョは、いや、一昨日は誰が描いたのかも知りませんでしたので、この画家は、
この場面を描くために、どれほど黙想したのだろうかと思いました。
聖トマスの驚きの表情。
それは、聖トマスが癒された瞬間だったのではないでしょうか。
また、不勉強な私は今は何も知りませんが、
画家カラヴァッジョ自身が癒された瞬間だったのかもしれないとも感じました。

 10月25日の記事で、今年の冬の終わり頃に
 描いた絵を使ってみました。
 私にパステルで表現することを
 教えてくれたのはURL五十嵐かりんさんです。
 
 私には長い間、
 「在ること」を知りながらも、
 それに触れることは、自分の傷の痛みに
 酔うことのように思われて、
 誤魔化し、知らない振りをして、
 放置してきた課題がありました。

 今年の冬の終わり頃、この課題を
 一度は片付けておかなくては、
 何かがあるたびに、周囲に
 嫌な思いをさせることを
 繰り返すのかもしれない、
 と思うことがありました。

第一、私自身が苦しかったのです。
 
五十嵐かりんさんは、「表現できれば、癒されます。」と仰いました。
ヘンリ・ナウウェンのある1節とともに、かりんさんのその言葉を思い出して、
スケッチブックとパステルを広げました。
そして、私が長い間放置してきた、「内なる幼いわたし」が、
どこまでも優等生を演じて、大人の期待に応えようとする「幼いわたし」が、
寂しく暗い山道を、独り、歯を食いしばって、健気に健気に、
手を広げて迎えてくれる誰かを探して歩き続けているのを「見つけた」のです。

傷が癒す初め、この絵に描いた、天から差し伸べられた手に、
傷痕はありませんでした。→
この手の持ち主はイエスであり、上のように、
後から描き加えた手首の傷は聖痕です。
どうしても、描き加えたくなったのです。

この絵が出来上がったとき、信頼している
友人に見せたら、やはり、この「傷痕」の
話になりました。

そして、その友人が思わず、
「傷が癒す」という言葉を使ったとき、
私の内面で起こりはじめたことに
気づきました。

カラヴァッジョが描いた聖トマス。
イエスの傷痕に触れる聖トマス。

この絵との出会いは、私の内的な世界にとって、大事な出来事になりそうです。


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テーマ:生きること - ジャンル:心と身体

  1. 今日の想い
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