風が往き交う場所

カトリックなおばはんの日々の戯書きです。                                   




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「あなたを知っている」 :: 2009/09/21(Mon)

「神は人間の罪を許して下さっても、罪という事実、
そのために誰かが傷ついた事実は消えない」ということを度々思う。

ところが、ふと、「確かに、あなたが犯した罪が消えることはないだろう。
しかし、罪を負うあなたの苦しみを、私は知っている。
あなたの苦しみを知っているから、あなたと同じ重さを私も一緒に負っている。」
と、神が仰っている気がした。
「ゆるし」とは、こういうことなのかもしれないと思った。

洗礼を受けたのは大学生のとき、都内のカトリック教会で。

遡って、初めてキリスト教の教会に足を踏み入れたのは、高校時代。
聖公会の教会。そこで洗礼を受けたいという友人に誘われて。
「思春期」から「青年期」にかけての、いやんなっちゃう位に未熟だった当時の私は、
そこに集う人々の人間的な部分に惑わされ、彼らを好意的に受けとめられなかった。
日曜日ごとに礼拝に与るような人々に対して、
はた迷惑な理想を抱き過ぎていたのだと思う。
しかし、神というものがいて、私以上に私のことを知っていると、
そこで教えられたことが、印象的だった。

自らの意思でカトリック教会に通うようになって、
誰かから神について問われると、「私以上に私を知っていて下さる方、
というイメージを描いている」と答えた。

すると、ほぼ100パーセントが、「え~!そんなの怖い~~~!」
と反応した。

「…ちょっと、違うんだけどなぁ。」
しかし、うまく表現できないので、「説明」をあきらめてきた。
まあ、それぞれが体験的に「悟る」ことなのだし。

「罪を負う人の苦しみを、私は知っている。
あなたの苦しみを知っているから、あなたと同じ重さを私も一緒に負っている。」
今、「ゆるし」という言葉に、そんな意味もあるのかもしれないと思って、
「私以上に私を知っていてくださる御方(おんかた)」という
神についての私のイメージを、次のように譬えてみた。

「イエスは善き主治医。主治医が私のことを何もかも分かっていて
くれていたなら、何だかホッとするでしょう?」

その信頼ゆえか、神はときとして、私を厳しく教育するのだけれど。

URLキッペス神父様は、「イエスは友だち」とも仰っている。

難しい神学は分からない。聖書にしろ、普通の本にしろ、
自分の個人的な体験を通してしか関われないので、
私の「話し方」はあまりに主観的で、申し訳なく感じている。


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テーマ:聖書・キリスト教 - ジャンル:学問・文化・芸術

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