風が往き交う場所

カトリックなおばはんの日々の戯書きです。                                   




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娘が蒔いてくれた種 :: 2015/07/17(Fri)

向日葵 2 数年前に嫁いだ娘が、医師の指示で、
 家でちょっと安静にしている。
 娘婿は忙しい人だが、それでもよく面倒を
 看てくれている。
 そんな2人に少しでも役に立てないかと、
 週に何度か2人の家を訪れている。
 実は家事は苦手で、面倒見の悪い私なのだが。

 感情が不安定だった私のために、幼いときから
 辛い思いをした娘は思春期のある日、
 たった1度の私の謝罪をたやすく受け入れ、
一方的に赦してくれた。今思えば、親からの謝罪の言葉に、むしろ傷つく危険もあったのに。

私は赦すということを娘から学んだ。
その娘が私のために「償い」の機会を設けてくれたように思えて、いそいそと娘宅を訪問している。

そして、訪問のたびに娘と新たに出会っているようであり、
なぜか今は故人となった実家の母への感謝の思いが湧いてくる。
激情型の母で、私はずいぶん傷つき、「母を深く愛しつつ憎む」という関係にあった。

生前の母との軋轢に苦しみながら一生を過ごすものと思っていたのに、
目の前の娘と「和解し続ける」うちに、亡き母とも心からの和解が進んでいることを
噛みしめている。

神様のなさり方はいつも不思議だ。

そして、娘に心からの感謝を。


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死にゆく「父」からの贈り物 :: 2014/06/24(Tue)

 今年の春まで担当させていただいた教会の入門講座の開講を翌年に控え、
すでに断れない状況になったとき、実は舅には癌が見つかり、家族には数か月の余命が宣告された。
高齢ゆえに手術は無理であること、
抗がん剤だけの治療をするが、それでも楽観できないことが告げられた。
 病気がそのときの医師の言葉通りに進行したなら、私は嫁としての立場と教会での立場との間で悩み、
十分に舅の看病ができない罪悪感と後悔の念と苛立ちに、生涯、苦しむことになったであろう。
ところが、医師たちさえ驚くような「奇跡」が起こり、癌が消えてしまい、
舅はこの数年間、以前のように てきぱきとした生活を取り戻していた。

 そして、舅のこととは関係のない理由で、今年の復活徹夜祭を境に、
私は入門講座の担当を外していただいた。
 すべての「務め」を果たした復活徹夜祭の明くる日は復活祭。
 夫の実家の昔からの習慣で、舅は自ら赤飯を炊いて、親しくさせていただいている友人知人に配って回り、
最後にわが家に届けに来てくれた。そして、その時のわが家での夕御飯が、舅との最後の晩餐となった。
その翌々日に舅は倒れ、血液の異常が見つかったのである。検査入院の後、一旦退院して、
定期的な消極的な治療を始めたものの、病状は明らかに進み、
最後には猛烈な速さで悪化の一途をたどって再入院した。

 入院1日目。あまりにも つらそうなので、病室に1人置いて帰ることはできそうもなかった。
が、その日、病院で徹夜出来そうなのは嫁の私だけであった。
義妹を巡って様々な確執があった舅と私である。「私でよいのか」と、舅の反応を恐れていた。

 しかし、夜中に目を覚ました舅は「やなぎはっかさん、すまんな。徹夜してくれたのか。」と、
安心したような笑みを浮かべてくれた。

 不思議なことだが、舅のその笑顔だけで、舅との感情のもつれ から だけではなく、
亡き姑と私の亡き両親の最期において、いずれの場合も十分なことが出来なかった後悔の念、
罪悪感までからも すっかり解放されたのを感じた。
たった2日間の「嫁業の真似ごと」だけで。

 舅に、最初に癌が見つかってからの一連のタイミングを思うと、舅が、
数年前に主のみもとに召されることなく、今までこの世に生き永らえてくれたことは、
私にとっては、私の いくつもの心の傷を完全に癒すために、
舅が神の道具になってくれたことのように思われてならない。
神さまが、奉仕で忙しかった私のために、
舅の病気の進行を止めていてくださったように思えてならないのである。

 入院2日目。舅の病気の進行が あまりにも早くて、
病者の塗油の秘跡をお願いした所属教会の神父様も間に合わないほどだったが、
神父様は、召されたばかりの舅のために最期の祈りをして下さった。
その祈りによって、そこにいた家族全員が慰められた。

 その後の葬儀の会場において、あるいは夫のきょうだいとのその後の関わりを通して、
私がこれまでの人間関係において負わざるを得なかった心の傷からも解放されたことを
実感した。多分、人を赦すということよりも、自分を赦すことが出来たのだと思う。
 私の努力によってではなく、理屈では説明できない恵みによって。

 舅のこの世での「最後の闘い」の姿が、私にはイエスの受難と重なって見えた。
いよいよ最後には背中をさすってあげることすら、つらいのではないかと思われるほどの痛みに
襲われていたが、それまでの生き様と同じように、雄々しく、立派な最期であったと思う。

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  1. 感謝

私が今よりももっと愚かだったころ :: 2013/06/28(Fri)

祈りの朝  その昔、私が今よりももっと
  愚かだったころのこと。

  私はいつも、神さまに
  恨みがましく不満をぶつけていた。
 「あなたは、ほんの気まぐれに、
  私という
 『この世で最も不要な存在』を
  お造りになった」と。

生まれつきのような生きづらさが、私の内的生活を侵し続けていたのだと思う。

豊かな友情に包まれた兄が羨ましくてならなかった。
私を愛し過ぎた母と祖母の教育的配慮から、私は幼いときから、
友だちを自由に選ばせてもらえなかった。
強烈な孤独感は長い間私を苛み、私は自分が母親の立場になっても
自分を大事に感じたことは1度もなかった。

そんなでありながら、妻となり母親となった私は、強い「置き去られ不安」から、
毎朝、家族を送りだすとき、必ず全員の無事な帰宅を願って祈ったものだった。

「神さま、今日も1日、
 ◎◎さん(夫の名)と、◎◎(娘の名)と、◎◎(息子の名)をお守りください。
 家族に何かがあるときには、私を身代わりにしてください」と。

そして、次の瞬間、ひるがえって思った。
「『神が気まぐれで作られた、この世で最も必要のない存在』だと訴える私が
 身代わりになることを、神さまはお喜びになるのだろうか」と。

今の私は思う。
「愚かなまでに私たちを慈しんでくださる神さまだから、
 きっと私のような者が身代わりになったとしても受け入れてくださったことだろう、
 いや、それどころか、神さまは、こんな私が身代わりにならなくてもよいように、
 家族を今日まで守り抜いてくださっている」と。 

ヨハネによる福音書の 15章には、
「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。」
と書かれている。

「友のために捨てる自分の命」とは、
その命が神さまからの贈り物である事実を受け入れ、
それゆえ、すべてをかけて大事にしているからこそ、
友のために差し出すときに大きな愛になるのだと思う。

しかし、神さまは、神さまに背を向け、すねて愚かな不満を口にした
わがままな私さえも赦し抜いて、こんなにも大事にしてくださるのだ。

ある日、そのことをはっきりと自覚したとき、
私は強すぎる愛情を私に注ぎ尽くした大人たちとも霊的に和解できたのだ。


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わが主、わが神よ :: 2013/05/10(Fri)

  西洋美術館

     数日前、別の友だちに言われました。
    「やなぎはっかさん、ずいぶん変わられたわね。
     聖霊に導かれている感じね」と。
     この友だちがいなかったら、私は今でも小さなことに傷つき、
     落胆し、自暴自棄を繰り返したことでしょう。
     その友だちが、そう言ってくれたのです。

     他人の目には取るに足りない失敗を、
     取り返しのつかないことと感じてしまう…。
     そういう種類の人がいます。
     自分を振り返りますと、
     私は子どものときからそういう類の一人でした。
 
     しかし、神さまはまことに面白い方で、
    「私にしてみたら一大事!
     たった今、ここで死んでお詫びをしなくてはならない!」と、
     大真面目に悩んで寝込んでしまった…!
     そんな失敗によって、
     私に「巨人の足取り(幼いイエスの聖テレーズの言葉)」
     で歩むことを促したのでした。

     それは、教会で行なわれた、誰にとっても生涯に1度の
     大事な場面でのことでした。
     後で聞いた話では、それが失敗だと気づいた人は居なかったそうです。
     その「失敗」を、私が一人、(傍から見れば)大袈裟に受けとめ、
     死ぬの生きるのと思い悩んだわけです。

    「自分なんか、やっぱり駄目だ」と
    涙を流しながら、やがて私は気づきました。
    あのとき、「いいところを見せようと思っていた」自分に。
    こうして大騒ぎをすれば、誰かが私への同情のうちに、
    私に非がないことを保証してくれることを期待していたことに。

    それは一つの大事な典礼の中でのことでしたが、
    当時の主任司祭が私を諭しました。
   「あなたなんかの失敗一つで、どうにかなってしまうほど、
    典礼は安っぽいものではありません。
    『私のために』と責任を感じるのは、あなたの傲慢ですよ。」と。
    それは私が自分の完全主義、完璧志向に思い当たった瞬間でもありました。

    どうしてなのでしょう。
    そのときから、あれほど傷つきやすかった私が、
    自分の内側から湧いてくる確かな力を感じ、励まされ、
    気がつけば、くよくよすることを忘れていたのです。

    そして、「生きていく価値がない」と思っていた自分のことを、
    いつの間にか赦し、好きになっていたのでした。
    そうしたら、あれほど人間嫌いだった私に、
    友だちが次々と与えられました。

    神さま、教会の群れを嫌っていた私に、
    あなたは何人もの友をくださり、友を通して、
    あなたの慈しみを示してくださいました。
    
    わが主、わが神よ。

 カリタスジャパン

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茨城の幸水 :: 2011/08/28(Sun)

茨城の幸水 ふるさとの茨城に
 住む2人のおばから、
 それぞれに
 名産の梨「幸水」が
 送られてきた。
 
 幸水は水分と甘味が
 豊かで、実に美味しい。
 ぐずぐずしていると
 幸水の季節は
 すぐに終わってしまう。

 東日本大震災の被災地
 でもある茨城県は
 福島県と隣接していて
 同様に
 この度の原発事故による
 風評被害に苦しんでいる。

送ってくれた片方のおばの荷には、
「検査について、生産者には確認済みだけれど、
 気になるなら遠慮なく処分してください」
との手紙が入っていた。 

心優しいおばの、あまりにも遠慮がちな気遣いに、胸がつまった。

おば上、そんな心配はしないでください。
私たちは喜んでいただきますからね。


 カリタスジャパン

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