風が往き交う場所

カトリックなおばはんの日々の戯書きです。                                   




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ルカによる福音書15章 「放蕩息子のおにいちゃん!」 :: 2016/04/12(Tue)

伊予手毬 f 
 

イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。
 弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことに
 なっている財産の分け前をください』と言った。
 それで、父親は財産を二人に分けてやった。
 何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に
 換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを
 尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。
 何もかも使い果たしたとき、その地方に
 ひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。
 それで、その地方に住むある人のところに
 身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって
豚の世話をさせた。
彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、
食べ物をくれる人はだれもいなかった。
そこで、彼は我に返って言った。
『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、
わたしはここで飢え死にしそうだ。
ここをたち、父のところに行って言おう。
「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。
もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』
そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、
父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。
息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。
もう息子と呼ばれる資格はありません。』
しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、
手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。
それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。
この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』
そして、祝宴を始めた。
ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。
そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。
僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、
お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』
兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。
しかし、兄は父親に言った。
『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。
それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。
ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、
肥えた子牛を屠っておやりになる。』
すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。
だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。
祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」
          ルカによる福音書 15・11-32(新共同訳聖書)



放蕩息子のお兄ちゃん!私は大好きです。
「わたしは、あんなに一所懸命、規律正しい生活をしたのに、誠実に父に仕えたのに、
親父ときたらあんな不良息子の帰還を手放しで喜びやがって!」
お兄ちゃんの気持ちを思うと、 やなぎはっかは、悔しくて 本気で泣けてしまいます。

でも、御父は、御父にびくびくおびえながらも、ただただ跡取りとしての努めを果たしたお兄ちゃんより、
放蕩の果てに泣きついてきた出来の悪い下の子の方が可愛いかったんだな。
確かに馬鹿な子ほど可愛いもんね。

お兄ちゃんはファリサイ派や律法学者のことをたとえられているらしい。
もう!
イエスさまは、懸命に生きている私たちに、意地悪なことばかり仰るのですよね。

でも、私は信じたい。
お兄ちゃんがあれだけを訴えたことを、御父が受けとめないはずがありません。
自分の心の不満を、悲しみを、素直にお父さんに訴えたことは、必ず、お兄ちゃんの救いにつながると。

いずれにしても、このお父さんのような心で生きていけますように。


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  1. 今日の想い

「神に愛された罪びと」 :: 2016/01/25(Mon)


 

 「イエスに出会ったことは、ザアカイの
  人生を根本から変えてしまいました。
  もちろん、彼はこれからも罪びとの
  レッテルを貼られたまま生きて
  いかなくてはならないでしょう。
  でも彼はもはや
  『神に見捨てられた罪びと』
  ではなく、
  『神に愛された罪びと』
  なのです。」
 幸田和生司教「福音のヒント」/
  年間第31主日  ルカ19章1-10節/
          2013年10月25日 (金
))


神に憧れつつも、神ではない私たちは誰もが罪びとである。
私という人間の中にも天使のような部分と悪魔のような部分、強さと弱さとが同居している。
私の内面にシモン・ペトロとイスカリオテのユダとが同居している。

ある人とイスカリオテのユダの話になった。
イスカリオテのユダが、なぜイエスを裏切ることになったのかを思い見ることなく、
ただ一方的に断罪されることを、どうにも承服できないと、その人は言った。

「イスカリオテのユダは、ただただ真面目な、
あまりにも真面目な普通の人だったのだと思う。」
と、私は応えた。

わが目に正しくないと映ることを、自分の価値観でついつい責め、裁くことを人間はしてしまう。
私自身にも覚えがある。そういう自分の傾向に、たびたび気づいて反省する。

イスカリオテのユダはきっと、あまりにも真面目な人だった。
そして、ローマ帝国の支配下にあるユダヤ人の立場を心から案じていた。
「先生の仰ることは確かに正しいけれど、しかし、先生は危険人物かもしれない…。」と、
イエス様の弟子でもあるユダは、他の弟子たちよりはるかに苦悩したのではないだろうか。

「イエス様ご自身も、ユダを救いたくて、救いたくて、たまらなかったのだと思うよ。」
理屈っぽい話し相手に、ありきたりの応えしか私には浮かばない。

イエス様を、どんなにひどいやり方で裏切っても、
もしも、イエス様の十字架の足元ででも、自分の行いを悔いるユダが居たなら、
イエス様は、これ以上ないほどに赦し抜かれたはずだと、私は思っている。
自ら命を絶ったユダを、イエス様は、これ以上ないほどに悲しまれたことだろう。

ユダの死後の運命は私たちには分からないけれど、
ユダがたとえ地獄に堕ちていても、
イエス様が手を差し伸べて、ユダがその御手をつかんでくれるのを
今でも待ち続けていらっしゃる光景を、私は思い浮かべてしまう。

「でもね、人間関係でも同じようなことが起こるけれど、
 『あなたが大事なんだ』という心からの思いに、相手が心を開いてくれなくては、
 イエス様にもどうにもならないのだと思う。
 幸田神父様が『神に愛された罪びと』という言葉を使われたけれど、そうなれたらいいよね。」
と、私は話を結んだ。

こんなで良かったのかな。


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  1. 祈り

待降節中に思ったこと(2) :: 2016/01/02(Sat)

151231_230746.jpg
 また、新しい年が明けた。
 若い世代のためにも、
 この1年の平和を祈りたい。

 待降節中に
 我に返ったことのもう一つは
 以下のこと。
 
 「私はその人に付随する
  さまざまな事情について
  あれこれと
  考えていた。

  同じその人について、
  ある人は
  その人の痛みだけを思い、
  もっとも必要なことをした。」


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  1. 今日の想い

待降節中に思ったこと(1) :: 2015/12/31(Thu)

PC032470a.jpg ある神父様のお言葉。
 「『み旨のままに』は、
 マリア様の人生そのものだった」

 待降節、降誕節になると、よく思うことがある。
 特に、孫が無事に誕生することを
 産院の廊下で祈り続けた記憶が
 鮮やかな今は、なおさら。

 マリア様には、
 設備の整った清潔な産院など用意されなかった。
 旅の途中で、
 それも、あまりにも貧しい旅の途中で、
 医師も助産師も看護師もいない場所で、
 マリア様は、神の子の母となられた。

 神様への揺るぎのない信頼がなかったら、
 普通は耐えられない不安を、
マリア様もヨセフ様も、
この時もまた胸にお納めになった。

日常にありがちな 小さな不安に右往左往する
自分の弱さを
神様のみ前にそっと差し出して、
少しでもマリア様に倣えたら、と思う。
小さな不安に囚われると、
もっとも良い答えを出してくださる
神様を忘れてしまいがちな私だけれど。


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  1. 今日の想い

ロザリオ:苦しみの神秘(受難の神秘) :: 2015/11/23(Mon)

ロザリオ 比較  

  第2の黙想    イエス、鞭打たれる
 「不正な裁判を受けたイエスは鞭打たれ、
  ペトロにも裏切られます。
  この一連を捧げて、
  イエスがペトロに
  あわれみの目を向けられたことを思い、
  罪から立ち上がる恵みを
  聖母の取り次ぎによって願いましょう」
 ~「小冊子 ロザリオの祈り」/聖母の騎士社~


  理由の分からないことで、
  気がつくと孤独な立場に立たされていることが
  ないだろうか。
  誤解を受けているのかもしれない。
  いや、むしろ何かの気遣いで、
 「そっとしておいて」くれているのかもしれない。
 それよりも、自分の方から気づかずに
  接触を避ける信号を発しているのかもしれない。


感受性においても知恵においても、限りある人間という身の悲しさ。

のみこまれそうな孤独を感じるときには、ご受難のときのイエス様を黙想する。
愛において、正義において、
非の打ちどころのない方なのに
イエス様以上に理不尽な仕打ちを受けた人はいないのだから。

あらゆることにおいて落ち度だらけの人間の分際で 、何が言えるのだろうか。


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